Arueの日記

なんでも日記

旅先でスマホを落とした話

 東京で適当に歩いていた時の話だが、予定まで少し時間があった。しかし、あまり来ないし、時間を潰す場所を知らない。

 

 喫茶店とか行くのも良いんだろうけど、せっかく旅先だし、チェーン店に行ったり、休める場所で長居するのもな...と感じていた。

 

 今は電車の中。とりあえず次の駅で降りて、辺りを歩いてみようと考えた。観光地に向かうというのもいいが、適当な場所で降りて街を見るのも、また良い楽しみ方だ。

 

 とりあえず降りて、麻布十番のコンビニで傘を買った。旅行期間ほとんど雨に見舞われており、運が悪い。

 

 コンビニから出て歩いた訳だが、ここら辺のエリアはあまり知らなかった。ただ高級住宅街というイメージはある

 

 志村さんがよく飲みに行っていたとかね。リッチなイメージ。

 

 歩いて暇を潰していたのだが、雨が酷かったので結局室内に入りたくなった。寒いし。

 

 喫茶店を外から覗くが、人が多く、入る気があまり起きない。そんな感じで、ぶらぶら歩いてまた駅近くまで戻ってきた。

 

 とりあえず喫煙所に行きたい。東京に来て思うのは、喫煙所を探すことの面倒さだ。普段沖縄にいる僕は、地元がいかに喫煙者に寛容なのかを思い知らされている。

 

 都会はしっかりしてるなと思う。しかし今回は、運良く横断歩道を渡った先にあるみたいだ。幸運。

 

 さっそく向かい、煙草に火をつけた時、異変に気がついた。

 

 スマホがない・・・

 

 不安感に苛まれる。なんせ道も電車も分からなければ、連絡も取れないため、色んな予定に影響が出る。

 

 終わった・・。

 

 喫煙所の近く、またその周辺を必死に探した。だが、ない・・・。

 

 もうここまで歩いた道を引き返して探してみるしかない。再び横断歩道を渡ると、付近にある電柱にスマホが立て掛けられていた。

 

 おそらく誰かがそこに置いてくれたのだろう、。ほんとによかった。

 

 人混みの中であれば見つかっていなかったかもしれないと思うと、、。冷や汗が出る。

 

 安堵で吸う煙草はすごく美味しかった。思わず隣の人に話しそうになるが、気持ちを抑えた。

 

 旅先での落とし物には気を付けなければ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

冴えカノのあの坂

 2月、あてもなく旅行をしていた。最終目的地は東京。

 

 とくにすることを決めてなかったのもあり、街を適当に歩いては、時々写真を撮り酒をのみ、、そんな目的なき旅だ。

 

 池袋に行く予定までは少し時間があった。去年は聖地巡礼旅をしていたこともあり、スマホで「東京・聖地巡礼」などと調べる。

 

 流石に東京だ。色々あるみたいだが、すごく知ってるアニメは少ない。

 

 それもそうだ。聖地巡礼はあらかじめ調べて行うものであるし、今回は無理かと諦めかけていた。

 

 そんな時、冴えカノの坂の写真を見つけたのだ。

 

 僕が中学生の時にアニメ、そして原作まで見た作品だ。あの坂。ヒロインと出会う坂。

 

 これは行かなきゃと、マップで調べてみる。池袋からは意外と近い。東池袋。道は分からないがとりあえず降りた。

 

 東池袋駅からはおそらく1.5kmくらい。せっかくだから歩きながら行ってもよかったのだが、雨で気温も低い。

 

 僕は生まれも育ちも沖縄であり、寒さにめっぽう弱い。なので歩くのは諦め、潔くマップで調べて電車に乗った。

 

 都電荒川線の早稲田方面に乗り学習院下駅で降りればあの坂の近くらしい。

 

 こう電車で移動できるのは便利なものだ。それにこの電車は鐘の音といい、どこか心地いい。暖かさからの安心感もある訳だが。

 

 まぁ距離的にすぐ着いた。

 

 とりあえず駅を出て、少し中の道の方に入っていくとすぐ見えた。長い直線の道で遠くに坂が見える。

 

f:id:Arue:20240228183605j:image

 

 一瞬でこれだと分かるのは有難い。それに駅が近いし。

 

 ただ車や人通りが多いため、写真を撮るのは少し一苦労だ。

 

 坂を登り。シャッターチャンス

 

f:id:Arue:20240228184132j:image

f:id:Arue:20240228183807j:image

 

 

 主人公が自転車で駆け抜けるシーンが印象深い。

 

 そしてヒロインと出会う。

f:id:Arue:20240228184550j:image

f:id:Arue:20240228184716j:image

 

 ふらっと立ち寄ったのだが、ちょうど雨も弱まり、良い写真が撮れた。

 

 中学生の頃見ていたアニメはとにかく思い出が乗る。

 

 生産型オタクになりたいと高校生からゲームソフトを作ってしまう主人公達の行動力はすごい。

 

 確かに何かを作るという欲望はオタクなら一度は持ったことがあるだろう。

 

 もちろん僕にもある。

 

 だが中々手を動かすまでにはいかずに諦めてしまうのが大半だ。

 

 オタクとして何かやっていけたらな。でもそれが何かと思っている内はまだまだだよねと。そんなことを思いながら駅へ向かった。

 

 

 

 

 

人間関係もゲームか。誰かがどこかで犠牲になる

 人間関係というのは難しい。円滑に進める為に何か心理学的な、あるいは人づてのプロセスを活用し、ゲームのように現実を攻略していくことはどうか。

 

 私は中々、迷惑かもしれないとか相手を傷つけてしまうと色々思ってしまうため、自己犠牲になりやすい。

 

 その自己犠牲というのも言い訳のようなもので、"自分のため"に行動して傷つくのが怖いだけかもしれない。

 

 それで余計に自己嫌悪に陥る。

 

 幸福を目指す以上、"自分のため"を思った行動が1番実体を残すことに繋がりやすいことは間違いない。お互いの利害が一致すれば良い訳だし、傷ついても良いように解釈するだけだ。

 

 誰かがどこかで傷ついたり妥協することは必ず起こる。

 

 思いやることは良いことだ。だが結局"自分のため"に行動している人に良いように解釈されるだけ、かつ見返りを求めるなと言われる。

 

 そう思うと、辛いね。

 

 正しい"他人のためが1番の幸せ"は、色々な幸福を享受した人の最終的な段階であると考える。

 

 結局大体の、"自分より相手のため"というのは、美徳かもしれないが、考えだけが先に進んでいて、不安定なものだろう。

 

 いつかは崩壊する。人間社会を辞めたらそうならないかもしれないですね

 

 

思考の切り替えと抑圧

 悟りを開いたとか、考え方を変えたとかいうのはゴールだけ見ている抑圧の可能性があると聞いて納得しかない。

 

 私はそれで悩んだことが沢山あった。考え方が自分の身体と一体化していくには、行動が必要である。悟りとかになるともはや、何か超次元的な行動となる。

 

 私は、悲観的な人間なのだが、ポジティブに生きようと何回もしてきた。しかし、最近はそれ自体が自身を抑圧してると感じてきたのだ。

 

 このようなことを言うと、考え方に合わせて行動を伴っていけばいいじゃないと意見があるかもしれない。

 

 だが、私は結局元に戻ることを何回も経験している。だからその言葉はうんざりだ。でもそう言ってくれる人は他人を思いやれるすごく良い人だと思う。

 

 ここでの考え方の違いは、何か内側で考えさせられる段階になった時、その前までの外での経験の差だと思う。

 

 感情に頼らず現実的に見えるアドバイスを送る人は、やはり今まで起こる経験で何か努力した過去がある人だろう

 

 だから努力不足な(成功の水準が高すぎて努力不足だと思っている人も含む)向けのアドバイスというのが別で存在するのかもしれない。

 

 もう考えたそのものを変えるというのは大変難しく、余計にストレスになるだろう。であるから考え方自体は肯定し、自分があるべきと思う姿に向けて努力をしていく。

 

 あるマインドを身に着けたから豊かになったというのは、それまでの過程があるはずだ。憧れとか納得とか、自分を変えたい強い思いとか。要するに自分からの行動。

 

 押し付けは良くない。

 

 とりあえず行動がないと始まらない。こんなこと心の中で誰でも分かっているはずだ。

 

 内的な部分との向き合い方は難しいことばかりである・・

 

 

 

好奇心と強迫観念

 好奇心はそれなりにある方なので、やりたいことがどんどん出てくる。これは一見生活が豊かにすることであると感じることなのだが、悩ましい問題だ。

 


 あることをしていても、他のことが気になり集中力が持たない。それでもって、その間にちょっと知りたい・やりたいことが増えていく訳だから、もう行動できなくなる。

 


 暇な時間ができても、心が休まらない。何をしようかと考えていたら1日が終わったり、精神的に疲れて何もしたくない気分になったりと。

 


 それはもはや一種の強迫観念が働いていると思う。これをやらなければいけないとか、こんな自分にならなければいけないとか、。

 


 現代のコスパ主義に脳を焼かれた状態と同じだろう。今は暇な時間でスキルアップを目指しましょうとか、理想の姿を思い描いて努力しましょうなどよく聞く。良いことなのだが、余裕が無くなると自分の為にやるはずが、やらなければならない(義務)となっていく。精神的にやられてしまったら意味が無いのだが、コスパ主義は聞こえがいいため疑うことができない。それで自分を責める負のサイクルだ。

 


 これが趣味の世界にまで働き出してくると、休まる場所がなくなるだろう。時間が限られていることは疑いようのない事実だが、限られていることを意識しすぎて病んでしまえば、より多くの時間を失うこと間違いない。

 


 私は趣味においても適切な距離感をとりたいのだが、中々に難しくて苦しんでいる。とりあえず" "やりたいと思ったことをやってみよう"と、何も考えない立ち位置で結論付くのだが、安定はしていない。そもそもこの記事を書いている時点でそうだ。

 1個ずつ取り組むのが1番シンプルかつ確実であることは間違いないだろう。でもそれは分かっているのだ、、。分かっている、。

 

 


 

刺激と生きがい

 

非日常を味わうことは、日常を楽しくさせるための刺激となり重要なことかもしれない。だが刺激というのは虚無感と隣り合わせな気がしてならない。

 

 私はポジティブなのかネガティブなのかと聞かれると困る。どちらかというとネガティブな方に分類される気がするが、分類は難しい。行動的には多少レールを外れたり、人と違っていても自分が思うように進めれば問題ないとか、ポジティブな行動面もあるのだが、世界観としては社会に諦めを抱いている冷めた人間でもある。楽しいことは楽しめるし、やりたいことはある。しかし、根底には冷めた感情がある状態だ。 

 ラッセル幸福論では、こう述べられている。

酔いしれることを求める人は忘却という以外の希望をあきらめてしまっている

ラッセル 幸福論 岩波文庫p23

 

  刺激的な非日常というのは、一種の酔いしれることに近いと言えるだろう。それは快楽であり一時的なものに過ぎないと本書では考えられている。

 確かに非日常な刺激(快楽)と目標・生きがいは違っており、人生にはどちらも必要で、バランス感覚が良い人間が上手くいくような気がする。刺激的な日常だけが生きがいになってしまうと、それ以外の日常に刺激を感じられず、退屈に押しつぶされるに違いない。であるから目標・生きがいというのは単に刺激があるものでなく、その過程で退屈さも兼ねているものだろう。その目標・生きがいを突き詰めていく過程で退屈さを感じた時に、刺激的な快楽をスパイスに少し入れてみたりする。それが気分をリフレッシュして頑張るみたいなことだと思う。

 

余談だが、ラッセルの幸福を求める方法として、自分の関心を内ではなく外界に向けるものという考えがある。これは考えるだけでは幸福になれないという私の意見が重なるところであるかもしれない。

 

aruediary.hatenablog.com

効率化と精神的健康

 効率化。物事の効率化を図ることは成功への近道かもしれない。現代はコスパ主義が横行して、人生の限られた時間を有効活用しようという動きが大きい。この考えは素晴らしいものであるし、人生でより多くの成果を残すことに繋がるだろう。だが、自己肯定感を下げる原因にもなりかねない。

 というのは、自分は誤った手法をしているから上達しないとか、効率的な手法を試しているのに上手くいかない自分は・・みたいなことを考えてしまうというものだ。それは精神的に悪い。他人から見たら効率が悪かったり、少しの進歩でも、ささやかな成長を実感しながら少しずつ先に進んでいくことが、大事ではないかと思う。

 精神的な健康が効率的な行動の大前提だ。各々のペースがあるはず。精神的な健康を維持しながら、少しずつ加速させていくことが最終的な各々にとっての効率化につながるに違いない。健康的な効率化・コスパ主義を