Arueの日記

なんでも日記

SNSの危険と希望

SNSは身近な存在である。またかなり依存性が高く、そこに困っている人も少なくはないかもしれない。こういう私も中毒者の1人でSNSではTwitterをメインに生息している。

 今回のテーマはSNSが持つ危険さと、また期待点について私が考えるSNS論として話していきたいと思う。

 まずは危険さ。これは第一に中毒性だ。SNSはほぼなんでも呟ける(中にはBANされることがあるため)。少なくとも現実社会よりはなんでも呟けることは確かである。社会への意見を言っている者、中々話せない趣味を話す人、遠く離れた人との交流、鍵垢で愚痴を言うなど、、様々な使い方があるだろう。これは現実でできなかったことを拡張してする行為であり、刺激が強い。現実に向ける目が疎かになることがあると思う。また独り言に"いいね"を貰える快感はSNSをやっている者には理解できるだろう。気持ちがいい

 第二の危険さ、格差の可視化だ。SNSで格差が可視化され精神的に辛い思いをしたことがないだろうか。学力が高い人、容姿が良い人、裕福な人、リアルが充実した人など、、。そもそも低い人はわざわざ自分のスペックを表に出す事をしないだろう(する人は一周回った人とかだろう)。それ故ステータスの高い投稿ばかり存在することが考えられる。それにより"スペックが高い"の基準を上げてしまう人が大勢出てくるだろう。当たり障りの無いように"普通"と言うが、それは見る者によって違うし、そのことがさらに価値観を捻じ曲げる。そこにはみんな当たり障りの無いように物を言い、お互いに価値観を捻じ曲げていくような構造がないだろうか?

 ここまで危険性について書いたが、ここからは期待点について書こうと思う。

 第一の期待点、情報の格差の解消。これは先程の格差の可視化も同時に成り立つことになるが、情報の格差が狭まることは間違いないだろう。特に教育なんかは、地方と東京では雲泥の差なんて言われることがあるが、実際に生活している人の生の声がSNSでは聞けたりする。教育に関わらずあらゆる事が個人の発言によって、リアルな解像度で本音を汲み取ることができるのではないだろうか。SNSで初知りな情報なんて数えてもキリが無いと思う。ネットを通じて自分の周りには見えなかった物が見える瞬間はやはり情報格差の解消に繋がるのではないだろうか。

 第二の期待点、人が影響し合う。誰しも社会におかしいと思うことがあると思う。だから何か考えを呟こう。その考えは広まり方によっては、SNSが無かった時代には考えられないくらいの速度で人に影響を与えるかもしれない。人の意見は影響し合うものだと思う。私は人が影響し合いながら、納得できる自分の意見を持つことが社会を良くしていくことに繋がると考えている。社会への悪口があるとその人自身のイメージに目が盗まれがちだが、何かそこに問題点や主張が含まれているに違いない。そのような部分を抽出することにより自分が新たな視点を手に入れることができるかもしれない。そう影響し合うことでどんなものが生まれるかまだ分からないが、全員が何も自分の考えを持たないよりは良いだろうと思う。

 SNSがどうであれ、ネットの住所みたいな物であるし、そこで出会う人間も魅力的な人が多い。またこのような意見が適当に出せてしまうのも魅力の1つだ。生きている限りはやっていると思う。一中毒者より